海運業から飲食業へ。事業革新の中で舵を切った男が語る、組織作りに必要なこと
株式会社ワンダーテーブル 代表取締役社長 秋元 巳智雄
2016.06.27

シュラスコ専門店の「バルバッコア」など、海外で人気の飲食店を日本国内で展開するほか、「モーモーパラダイス」「ベリーニ」といったオリジナルブランドの国内および海外展開を行っているワンダーテーブル。2012年から代表取締役を務める秋元巳智雄氏は、飲食業界の中でもユニークな存在である。

海運業から飲食業への事業革新が進む中で入社した富士汽船(現:ワンダーテーブル)。そこで経験した「成功」と「失敗」、そして現在、代表取締役として取り組む「フィロソフィー経営」についてまで、秋元氏の歩みを語っていただいた。

取材・文:HIP編集部 写真:相良博昭

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「海運業から飲食業へ。事業革新の中で舵を切った男が語る、組織作りに必要なこと」
株式会社ワンダーテーブル 代表取締役社長 秋元 巳智雄

クライアントだった富士汽船に「プロデュースをやらせてください」と伝えたんです。

HIP:秋元さんは大学時代から飲食業界でアルバイトをされていたそうですね。大学を卒業してからも飲食の道に進まれたのですか?

秋元:はい。大学生の頃はプロントの1号店でアルバイトをしていて、当時アルバイトでは初の「店長代理」というポジションで働いていました。店長が休みのときは代わりにお店のマネジメントを行い、フランチャイズ店舗を増やしていく時期だったので、新しいオーナーの研修やトレーニングもやっていましたね。そういった経験から、大学卒業後は飲食ビジネスのコンサルティングを行う会社に入社して、飲食店のプロデュースや従業員研修をメインで行っていました。ワンダーテーブルの前身である富士汽船は、クライアントの一つだったんです。

HIP:富士汽船は、もともと海運業を行っていた会社ですよね。

秋元:古くから続く海運業の会社でしたが、バブル崩壊後は業績が伸び悩み、業績を立て直すために飲食産業参入を進めていました。そのときに私がいた会社がサポートを行っていたんです。1994年に、弊社の前社長の林(祥隆)が「バルバッコア」というシュラスコレストランのブランドをブラジルから日本に持ち込んだのですが、私はそこで従業員の研修やトレーニングを担当していました。

HIP:それがワンダーテーブルへとつながっていくきっかけだったんですね。

秋元:3年ぐらいはクライアントの一つとして研修の仕事を担当していたんですが、「自分がやりたい仕事は研修だけじゃない」という想いを持つようになって。林に「プロデュースをやらせてください」と頼んで作ったのが、「東京ベリーニカフェ」というイタリアンなんです。いわゆる出入り業者の身でしたが、それから富士汽船という会社の中に入り込んで幅広い仕事をするようになり、1997年に転職を決意しました。

HIP:秋元さんのキャリアとスキルでは、独立の道もあったかと思うのですが、そうされなかったのはどうしてだったのでしょうか?

秋元:実は20代の頃、勤めていた会社とは別に仲間と一緒に小さい会社を作って、お店を3軒くらい経営していたんですよ。けれども、規模も売上もたかが知れていて。そこで自分の力のなさを痛感しましたし、続けていくのも無理だと思い、富士汽船に入る前に清算したんです。

自分でブランドを作り、人を育て、大きく広げる。「実業をしたい」という気持ちが強かったですね。

HIP:前職を辞め、自分で経営していたお店を清算してまで、富士汽船に転職しようと思った一番の理由は何だったのでしょうか?

秋元:「実業をしたい」という気持ちが強かったですね。自分でブランドを作り、人を育て、大きく広げることがしたかった。前職でやっていた「プロデュース」の部分だけでは実業とは言えないし、お店を経営していたとはいえ小規模でしたから、もっと影響力のある実業を学びたいと思っていました。それと同時に、会社の体質を変えていくという使命も持っていましたね。

HIP:会社の体質における課題も多かったと。

秋元:正直に言って、ポテンシャルはあるはずなのに、それが発揮できていない状況だったんですよ。事業改革の真っ只中でしたし、社員同士の風通しという意味でも課題があった。それをなんとか打破して、業界のトップリーダーになれる会社にできたらという想いも持っていました。

HIP:そのためにどんなことから始められたんですか?

秋元:入社前からプロデュースをしていた東京ベリーニカフェの店舗をサポートする営業部署を立ち上げつつ、もう一つ新たなブランドを立ち上げるための部署を新設したんです。物件を見つけるところから企画の提案、出店時のスタッフ募集や面接まで、すべて自分たちでやってもらいました。それまでの富士汽船にはなかった、新しい取り組みを始めることで、少しずつ会社の風土を変えていくようにしました。

HIP:入社してすぐに次々と新しいことを始める中で、周囲からの反発はなかったのでしょうか?

秋元:裏ではいろいろ言われていたと思います(笑)。でも、仕事できちんと結果を出していましたし、上司からの信頼を得るための仕事はどんどんやるようにしていましたね。当時取締役だった林も、次期社長として会社を変えようという責務が強かったと思うんです。その中で、私みたいな人間が頑張らないといけないという気持ちもありました。

厳しい状況の中でも着実に歩み、成長していくことを意識しなくてはいけません。

HIP:新たなブランドを立ち上げる部署ができて、会社に変化はありましたか?

秋元:私が入社した1997年からの3年ぐらいで、世の中的にもトレンドを作る会社として認識されるようになりました。和食店の「すみか」や「水の賦」、バー業態の「月の兎」といった時代の半歩先を行くようなブランドをどんどん立ち上げたんです。それから大企業もフォロワーとして同じ業態に参入し、文化として定着していきましたね。店舗がヒットしたことで売上も順調に伸びていきましたが、一方で赤字になるブランドもいろいろありました。

HIP:どういったことがあったのでしょうか?

秋元:一番印象的だったのは、お台場に作った大型レストランですね。1996年に開催予定だった『世界都市博覧会』に向けて、当時のお台場ではさまざまな開発が行われていたのですが、都市博を中止にしたことでそれらが一気に止まったんです。でも、こちらは既に店内150坪、テラス150坪のお店を作ってしまっていた。もちろんオープンしてもお客さまは全然来なくて、大赤字でした。

HIP:そういった苦境をどのように乗り越えられたのですか?

秋元:ある程度のところで撤退を決意しましたね。現場も本社も、利益を出すための努力は惜しまなかったですし、黒字になった時期も少しはあったのですが、プロジェクトとしてはどこかで失敗を認めることも大切です。優秀なスタッフを赤字の店ではなく、報われる場所で頑張ってもらおうと、気持ちを切り替えることで決断できました。あとは当時の大きな問題でいうと、狂牛病問題は忘れられません。

HIP:日本では2001年に狂牛病感染牛が発見され、テレビなどでも大きく話題になりましたね。

秋元:「モーモーパラダイス」を国内で展開していたこともあり、大きな打撃を受けました。さらに、2003年にアメリカで狂牛病が発生したのが、ちょうど東京・赤坂に「ロウリーズ・ザ・プライムリブ」というプライムリブの専門店をオープンしたタイミングと重なったんです。ここも400坪という大型店だったこともあり、その影響で2年半ぐらいは赤字が続いてしまって。社内でも問題になって、当時営業部長だった私も非常に辛い思いをしました。

HIP:それは厳しい状況ですね。

秋元:厳しかったですね。スタッフたちには、一度来店したお客さまにまた来てもらえるよう、サービスと商品のクオリティを落とさないようにしようと呼びかけていました。ただ赤字を出すだけの2年半ではダメで、厳しい状況の中でも着実に歩み、成長していくことを意識しなくてはいけません。そうしたサービスとクオリティ面での努力を毎月積み上げることで3年目にようやく黒字になり、そこから4〜5年経った頃には年商10億円に到達したんです。

HIP:赤字でも撤退せずに、あえて少しずつ成長するほうに賭けたんですね。年商10億円は飲食業界の中でも珍しいのではないでしょうか。

秋元:数えるくらいしかないと思います。ただ、今度はビルの建替えの計画があり店舗を移転せざるを得ない状況になってしまって……。その場所でずっと続けていくつもりでしたから、とてもショックでした。そうは言っても状況は変わらないので、いまの恵比寿に再度お店をオープンしたのが2014年4月。赤坂のときと同じくらい利益が出るかどうか心配でしたが、丸2年経った現在では赤坂の売上を超えることができています。

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