2017年にHondaの研究開発を担う本田技術研究所で始まった、新事業創出プログラム 「IGNITION」。2020年から起業という方法を加え、さらに2021年からはHonda全社に規模を拡大し、広くアイデアを募集している。そして、「IGNITION」発のスタートアップ第1号として、株式会社Ashiraseが2021年4月に設立された。同社では「あしらせ」という、視覚障がい者の歩行をサポートするシューズイン型のナビゲーションシステムを開発。2022年度内の発売を目指している。
なぜ、「IGNITION」では、Ashiraseを採択したのか。その真相に迫るべく、今回は、Ashirase社の代表取締役CEOである千野歩氏、「IGNITION」の企画・運営に携わる本田技研工業株式会社 経営企画統括部の羽根田里志氏の対談を実施。大企業発スタートアップとなったAshiraseの起業に至るまでの道のりや、エンジニアがアイデアを事業に結びつけるためのマインドを語ってもらった。
文:サナダユキタカ 写真:玉村敬太
視覚障がい者が、安全に歩けるように。「あしらせ」の特徴
HIP編集部(以下、HIP):「IGNITION」の第1号スタートアップとして誕生したAshiraseですが、まずはプロダクトである「あしらせ」の特徴や長所を教えてください。
千野歩(以下、千野):視覚障がい者向けのナビゲーションシステムである「あしらせ」は、「歩く」ことにフォーカスし、つくり出したプロダクトです。靴のなかに取り付ける立体型のモーションセンサーつき振動デバイスと、スマートフォンアプリによってナビゲーションを実現させます。
直進時は足の前方が振動し、右に曲がる時は右足の側面が、左に曲がる時は左足の側面が振動して知らせます。さらに、振動のテンポによって曲がる場所に近づいていることも案内します。こうしたサポートによって、視覚障がい者でも直感的に進行方向が理解でき、ルートを必要以上に気にすることなく、安全に集中して歩くことができるようになるのです。
HIP:視覚障がい者向けのプロダクトとして、なぜ「足」にアプローチしたのですか。
千野:視覚障がい者が今まで行なっていた安全確認の邪魔をしないよう、情報収集に使っていなかった器官・部位にアプローチしようと考えたからです。健常者の場合、情報の7、8割は視覚から得ているといわれています。それ以外には、触覚や聴覚が挙げられます。
つまり視覚障がい者の場合は、触覚・聴覚が非常に重要となりますので、その器官に干渉しないプロダクトを考えました。また、視覚に障がいがあると、目視ができないため忘れ物が多い方もいらっしゃいます。「あしらせ」は靴に入れるプロダクトなので、外出の際に忘れてしまうということも防げます。
5年前のメモがアイデアの種に。新たな事業構想が生まれた瞬間
HIP:「あしらせ」のアイデアはどのように生まれたのですか。そのきっかけなど、教えてください。
千野:本田技術研究所のエンジニアだった5年ほど前から、思いついたアイデアをメモするということを実践していました。その頃、たまたま見た夕方のニュースで点字ブロックの上に自転車が置かれてしまい、迷惑しているという話が紹介されていて。そこで私は、点字ブロックが動いて自転車のないところに現れるようにすれば良いのでは、とメモしておいたのです。
それから数年後に、高齢で目が不自由な親族が歩いている最中に足を踏み外して川に落ちてしまうという事故に遭い、亡くなってしまう出来事がありました。身内が亡くなったのが衝撃だっただけでなく、私は日頃自動車の開発をしてきましたが、単独の歩行で事故が起きてしまったことから、歩行をモビリティーと捉える事ができるのではないかと思ったんです。
同じような事故を減らしていきたい。そう考えたときに、数年前にメモしておいたアイデアを思い出したのです。もちろん、点字ブロックが動くという発想はそのまま実現できませんが(笑)、同僚に「こんなことを思いついたんだけど」と話をしてみると、いろいろなアイデアが出てきました。それをブラッシュアップしていったのが「あしらせ」のきっかけになっています。
HIP:プロダクトを開発するにあたり、ヒアリングはどれくらい行なったのでしょうか。
千野:ヒアリングは2018年から開始し、現在も継続的に行なっています。当初は、足の裏は視覚障がい者にとって大事な部分なので別の部位で知らせてくれたほうが良い、音声のほうが良い、などといった話もあり、体のいろいろなところでナビゲーションを試していました。Ashiraseを創業してからは、プロダクトを50名ほどに使ってもらっており、近々、新たに20名に使用いただき、生の声を集めていく予定です。これからも仮説を立てながら、使用いただいてフィードバックを得ながら改善していくという工程を繰り返し、リリースにつなげていきます。
HIP:プロダクト化に向けては、どのように進めていきましたか。
千野:きっかけは身内の事故ですが、プロダクトへの思いが強くなったのは視覚障がい者の皆さんとコミュニケーションをとるようになってからです。彼らは言葉ですべての意思を伝える必要があるため、語彙も豊富で会話も面白い。全盲のご夫婦には、どのように出会い、結婚したのかをお聞きすることができました。そうした話のなかで、一人で自由に旅行に行ったり、好きな物を食べに行ったりといった、私たちが当然のように普段していることを、諦めているとわかったのです。
ヘルパーさんがいないと行動も制限されますし、これは視覚障がい者の皆さんがとても不自由を強いられているんだなと痛感しました。このような話を聞く内に、課題を解決するためのプロダクトを、社会実装したいという思いがどんどんと強くなっていったのです。
その後、本田技術研究所のなかだけで開催されていた新規事業創出プログラム「IGNITION」に応募し、最後の3案まで残ったのですが、残念ながらそのときは事業化とはなりませんでした。それからは、一緒にプロダクトづくりに取り組む仲間を集めたり、内閣府が開催するビジネスコンテストなどに参加したりと、事業化に向けてさまざまな準備をしていきました。そして、Honda全社に拡大された「IGNITION」に再チャレンジし、採択されて、昨年Ashiraseを創業したのです。
自分では気づけなかった盲点。スタートアップ支援の専門家の助言とは?
HIP:「IGNITION」はVCと連携し、実施されている点が特徴の一つだと思います。その背景をお聞かせください。
羽根田里志(以下、羽根田):スタートアップを成長させるために、VCと連携するのがグローバル・スタンダードだからです。2017年から「IGNITION」を続けてきたなかで、IGNITION単体で新規事業を立ち上げる難しさもわかってきました。であれば、思い切って提案者に起業してもらい、VCと一緒に事業を育てるやり方を加えてみようとなったのです。起業する場合のリード投資家はVCで、出資と経営支援をしてもらいながら、Hondaがフォローの投資と支援を共に行なっていく体制です。
HIP:「IGNITION」では、テック系のスタートアップへの投資事業を推進するリアルテックファンド株式会社が審査員として入り、AshiraseにはVCとして出資もしています。VCがプログラムに参画することによって、メリットを感じた点はありますか。
千野:アクセラレータープログラムのような一過性のメンタリングではなく、ハンズオンでVCに入ってもらうので、コミット力が違いました。事業というものを把握し、私たちの強みである開発以外の部分、ハードウエアにおける製造管理や販売経路、顧客分析・解析といった足りない部分のサポートを継続して行なってもらっています。リアルテックファンド代表の永田暁彦さんにメンターを務めてもらったのですが、最初の頃は忙しい時間のなか、毎週メンタリングを実施いただきました。
HIP:そうしたサポートの甲斐もあって、Ashiraseは比較的スムーズに起業までに至ったのでしょうか。
羽根田:いえ、じつは最終審査で1回落ちているんですよね。そこから4週間という短期間で、チームがどれだけ成長できるか再審査することになりました。その成長幅が大きければ、事業のポテンシャルも測れるだろうと。そして、2回目の審査で、「あしらせ」のサービスだけでなく千野を含めた3人のチームのケイパビリティと起業家精神が評価され、満場一致でスタートアップ第1号に選ばれたのです。
HIP:最終審査で1度落ちてから、わずか4週間でどのようなことをブラッシュアップしていったのでしょうか。
千野:私の得意分野はエンジニアリングですが、事業計画の粗さが落選した最大の原因でした。そこで、4週間でビジネスサイドのブラッシュアップに努めました。まずは、苦手な分野を積極的に聞きにいこうと、リアルテックファンドの永田さんにアドバイスをもらうことに。そこで、チェック項目を示してもらいました。一つひとつ確認していくと自分たちだけで考えていたら気づかなかったであろう項目がいくつもあり、スタートアップ支援を専門で行う方の経験値の高さを思い知りました。