INTERVIEW
世界一簡単なシステムでセールスを刷新。波乱万丈の起業家が生み出した営業ツール「bellFace」
中島一明(ベルフェイス株式会社 代表取締役社長)

INFORMATION

2017.07.24

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2017年3月に開催されたHIP(※)主催のビジネスコンテンスト『虎ノ門ベンチャードラフト会議in虎ノ門ヒルズ』。

多くの参加企業のなかから最優秀賞を獲得したベルフェイス株式会社の代表、中島一明氏は、波乱万丈な起業家人生を送ってきた。中学生にして起業家を目指し高校は3か月で中退。さまざまな仕事を経て、世界中を放浪。帰国後に自らの会社を立ち上げるも、代表取締役を退任の憂き目に遭う。しかし、そんな逆境をはねのけ新会社を創業。それがベルフェイス株式会社だ。

同社が展開するインサイドセールスシステム「bellFace」は、サービスインから2年足らずで500社以上の企業が導入するまでになった。今後は世界展開をも視野に入れ、ビジネスの拡充を図っているという。営業の現場を刷新する革新的なプロダクトはどのようにして生まれたのだろうか?


※平成26年度からの3年間、東京都の「インキュベーションHUB推進プロジェクト」の採択事業として、新日本有限責任監査法人と森ビル株式会社が協働して推進した、虎ノ門・赤坂・六本木を核とした東京都心における新産業創造プラットフォームの構築」を目指した活動です。


取材・文:金井悟 写真:玉村敬太

高校を中退し、今後どうするかを考えたんです。ぼくは雇われるのは嫌でしたし、投資家か事業家になりたいと考え、起業することを決めました。

HIP編集部(以下、HIP):中島さんは中学生の頃より起業を志していたと伺いました。どうして、若くしてそうした気持ちが芽生えたのでしょうか?

中島一明氏(以下、中島):私は福岡の出身で、父親もサラリーマン、親戚にも経営者は一人もいない、いわゆる普通の家庭に生まれました。ただ、昔でいうと15歳って元服して大人になる歳なので、中学生の頃から自分がどう生きて行くかを考えなければいけないと、ビジネス書とか哲学書は読み漁っていたんです。そんな気持ちを抱えながら、いざ地元の進学校に入学したものの、朝9時から夕方4時まで勉強することに疑問が残ってしまい、3か月で中退しました。

HIP:高校生にとっては大きな決断だと思います。反対はなかったのでしょうか?

中島:両親は「自分の決めたことならば」と背中を押してくれましたね。高校を中退して、今後どうするかを考えて気づいたことがあったんです。それは人生は「事業を始めるか」「投資家になるか」「独立するか」「雇われるか」の4つだということ。ぼくは雇われるのは嫌でしたし、そこで起業することを決めました。

ベルフェイス株式会社代表取締役社長 中島一明氏

HIP:事業家や投資家を目指すのなら、進学校から大学に進むという選択肢もあると思うのですが。

中島:もちろん、学校の勉強は必要だと思うんです。ただ、学校で過ごす時間に耐えられなくなったっていうのが一番大きかったのかもしれないです。

それで、一度社会に出て、働くとはどういうことか? を考えることも必要だなと思い、すぐに測量会社に入社して、正社員で2年くらい働きました。いつか人を雇うのだったら。自分も雇われる経験はするべきだと思っていたので。

HIP:会社員を経験して学んだことはありますか?

中島:「社員は会社のことなんて考えない」っていうことですね。あと、いまだからわかることですが、ITの仕事は基本的に人の生き死にを左右するものではありませんよね。インフラを作ったり、作物を育てたり、人と人のつながりがあったり、そうしたものが社会のベースにあって、ITはその上で世の中を便利にするものだということに気づけたのは、他の業種を経験したからこそ持ち得た価値観ですね。

東南アジア、中近東、ヨーロッパ、アメリカを周りながら200枚のビジネスプランを書き溜め、20歳で日本に戻ってきました

HIP:その後、会社を辞めて世界一周の旅に出たと伺いました。すぐに起業はしなかったのですか?

中島:ソフトバンクの孫正義社長が学生時代に1日5分で1つ特許のアイデアを考え、企業に売却して資金を得たというエピソードを知りまして。そうか、何かやる前には徹底して考えなきゃいけないんだなと思い、私は1日2~3時間かけて1つの事業計画書を書くと決めました。それも必要な資金、顧客メリットから競合分析までを盛り込んで作成する。そのついでに世界一周でもしてこよう、と。そうして、東南アジア、中近東、ヨーロッパ、アメリカを周りながら、200枚のビジネスプランを書き溜める旅に出ました。日本に戻ってきた翌年、そのプランのなかから1つの事業を選んでディーノシステムを立ち上げました。

HIP:ディーノシステムでは、どのような事業を行ったのですか?

中島:携帯電話向けのコンテンツ制作の事業でした。ただ、うまくいかずにいきなり消費者金融から借金して仲間のお給料を払うような状態になってしまった。そのときに自身の反省と勉強を兼ねて、福岡の経営者に話を聞いて回っていったんです。

そこで聞いた話がすごく面白かったので、みんなにも共有しようとウェブサイトをつくって動画を撮り始めました。100社くらい掲載したところで「うちも掲載してほしい」というお話をいただくようになり、経営者を紹介する動画サービス「福岡の社長.tv」をスタートさせました。

HIP:自身の勉強のつもりで始めたプロジェクトが、事業になったのですね。

中島:そうですね。コツコツと掲載企業を集めていって、毎月安定的に売上を立てられるようになり、残りの46都道府県にも展開をし始めました。ただ、そこでのビジネスモデルがよくなかったんですね。全国に代理店をつくったんですけど、うまくマネジメントすることができず、掲載数も思ったように伸びていきませんでした。

そこで、あらためて自分たちで全国の営業開拓をしようと福岡にインサイドセールス(非対面でお客さまとコミュニケーションする営業)チームをつくったんです。代理店を使わずに直接顧客を増やすため、スカイプといった既存のサービスを試したんですけど、どれも社内会議向けにつくられているのでうまくいかない。結局、電話やメール、ファックスだけに絞って営業を行った結果、徐々に精度が上がっていきました。このときの経験が、弊社のサービス「bellFace」につながっています。

HIP:なるほど。しかし、ディーノシステムの創業者で代表取締役であった中島さんは2015年4月末に退任されています。そこからベルフェイス立ち上げに至るまではどのようなことがあったのでしょうか?

中島:事業を全国に広げたとき、おおくの人を雇いました。そこでキャッシュフローがうまく回らず、倒産しかけたことがあったんです。その資金調達のために私が持っている株の大半を譲渡してしまった。ふとわれに返ると株を所有していないので取締役会で自分の主張が通らない。やがて代表を解任されて……これが2年前の当時29歳のときですね。

ただ、いつ会社を離れても次の一手が後手にならないように事業計画は考えていました。コアとなるメンバーもついてきくれたので、2015年の4月29日にディーノシステムを解任される直前、4月27日にベルフェイス株式会社を立ち上げました。

営業いらずで500社が導入。逆境に立たされた中島氏が語る「bellFace」開発秘話

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