「日本のすべての子どもにコンピューター教育を」というスローガンを掲げ、2015年7月に一般社団法人みんなのコードを立ち上げた利根川裕太氏。大学卒業後は大手不動産会社森ビルに就職したものの、4年で退社。まだ立ち上げの時期だったベンチャー企業ラクスルに転職してプログラミングを学んだことが、プログラミング教育の重要性に気づくきっかけだったと言う。
昨今、IT先進国だけでなく途上国でも幼少期のプログラミング教育の提供が加速化しているが、日本での普及はこれからの課題とも言えるだろう。そんな中、利根川氏はなぜ自ら旗を振ろうと思ったのだろうか。大手企業からベンチャー企業への転身、さらには自ら非営利法人を立ち上げるに至った経緯とは? それぞれの場所で自らに課したミッションと、それを乗り越えるためのヒントをお話いただいた。
取材・文:HIP編集部 写真:大畑陽子
昼は森ビルで働いて、夜はラクスルのプログラミングを担当して、といった生活を1年半ほど続けていました
HIP編集部(以下、HIP):一般社団法人みんなのコードでは子どもたちへのプログラミング教育の普及を行われているとのことですが、具体的にはどのような活動をされているのでしょうか?
利根川裕太(以下、利根川):「公教育でのプログラミング必修化の推進」とのミッションの下、一つはアメリカで始まった「Hour Of Code(アワーオブコード)」という子ども向けのプログラミング教育普及啓蒙活動を、日本国内でも広める活動をしています。もう一つが、先生にプログラミングの授業の仕方を教えたり、授業の支援をするなど、学校でのプログラミング教育の普及支援活動ですね。そして、文部科学省や市の教育委員会、地方議員、国会議員の方々にプログラミング教育の必要性を説く政策提言活動を行っています。
HIP:幼少期のプログラミング教育は最近日本でも注目され始めていますよね。利根川さんご自身も幼少期から行われてきたのでしょうか?
利根川:いえ、実は初めてプログラミングに触れたのは社会人になってからなんです。2015年7月にみんなのコードを立ち上げる前は、ラクスルというネット印刷を扱うベンチャーの会社で働いていて、その立ち上げに携わったときに初めてプログラミングを勉強しました。ラクスルではオンライン印刷事業を行っていますが、インターネットやITの力で印刷業界という古い業界さえも変えられるということを経験して。その衝撃が大きかったですね。
HIP:ラクスルに入社される前は森ビルで働かれていたそうですね。
利根川:はい。ラクスルは2009年9月に創業していますが、立ち上げのときはお手伝いという感じでした。昼は森ビルで働いて、夜はラクスルの立ち上げに関する様々なことをしつつ、数か月目でプログラミングの勉強を始めて、すぐに実践して……といった生活を1年半ほど続けていましたね。
HIP:大企業で働きながら二足のわらじで新しいことにチャレンジするのは労力も勇気も必要だと思いますが、当時はどういった心境だったのでしょうか?
利根川:森ビルにはもともと街作りや空間作りが好きだから入社したんです。自分の頭で考えて行動し、それを世の中に出し、成果を見ることができる、という仕事をやりたいと思っていたのですが、大きな組織の若手だとなかなか実現するのは難しいところがあって。成果がすぐに実感できるチャレンジングなことをしたいと思っていたときに、大学時代の親友で現在はベンチャーキャピタルをやっている佐俣アンリ氏にラクスルの代表の松本(恭攝)を紹介されたんです。
HIP:そこで意気投合されたと。
利根川:そうですね。会った当日に「手伝って」と言われるくらいの勢いでした(笑)。当時はまだラクスルには何もなかった状態だったので、私も「会社を辞めるわけじゃないし、手伝うくらいなら」といった感じでしたね。
24歳という年齢で、6兆円規模の印刷業界を変える。この人とならできそうだと思ったんです
HIP:松本さんとはどんなところで意気投合されたのでしょう?
利根川:ラクスルには「仕組みを変えれば、世界はもっとよくなる」というキャッチフレーズがあるのですが、そのヴィジョンが面白いなと思いました。当時お互いに24歳で、その年齢で6兆円規模の印刷業界を変えようとするって、正気じゃないと思いつつ、言っていることは正しそうだし、この人とならできるかもしれないと思ったんですよね。
HIP:その結果、お手伝いを始めてから1年半後に正式にラクスルへ転職されたんですね。森ビルを辞める際、ご自身の中で迷いや不安はなかったのでしょうか?
利根川:そういう意味では、手伝っていた1年半の間は悩んでいた部分があったかと思います。チャレンジングなことがしたい想いはありましたが、大企業に勤めているという安定を手放すのにはなんだかんだ1年半かかりました。
HIP:実際にラクスルに行かれてからはどうでしたか?
利根川:大変なことだらけでしたね(笑)。会社全体としてはこのサービスはヒットするだろうと思ったら全然ヒットしなかったり、リリースを告知していたサービスに開発が間に合わなくてプロジェクトが炎上したり。別の観点ですが、個人的なところでは、自分より優秀な人が入ってきたときは辛かったですね。技術責任者になったものの、プログラミングの経験は浅かったので。ベンチャー企業であることを考えたら、成長するためには優秀な仲間が加わったほうが絶対いいに決まっていますが、当時はまだ26、7歳で、素直にそう思えるだけの余裕がなかったんです。
HIP:会社の大変さと自分の中の葛藤とに、どうやって向き合われたのでしょうか?
利根川:最初の頃は、フルタイムでコードを書くのは自分一人だったので、どういうサービスを作れば売上げが伸びるかだとか、次はこういうサービスを作ろうとか、ずっと試行錯誤していました。それから会社が成長してエンジニアが徐々に増えてくると、チームをリードしたり、メンバーの採用を行ったり、社内全体にヴィジョンを示す立場になって、自分が手を動かすのではないところに役割が移ってきた。そうやって、会社や事業が大きくなっていくことで報われた感覚はありました。
HIP:それこそ、森ビルでは味わえなかった、自分が行動したことに対する成果が見える状況だった、と。
利根川:自分の力で伸びたかと言えば、良くも悪くもそんなことはないと思っています。ただ、私がラクスルに在籍していた5年間のうちに社員数が増えてオフィスを何回か移転しましたし、テレビCMもやるようになって。そういった会社の成長を実感できる出来事がいろいろとあったので、達成感はありましたね。