2014年12月、トヨタの新たなイノベーションが発表された。新型燃料電池車「MIRAI(ミライ)」の発売だ。燃料が水素、CO2の排出ゼロ、3分程度の充填で650kmの走行が可能という、新時代のモビリティ。依然普及には様々な課題はあるものの、発売開始後わずか1か月で、受注台数が年間国内販売計画台数を大きく上回るなど、注目を集めている。
実はトヨタは20年近く、水素で走る自動車の研究を続けてきた。2011年の年末、そのタスキを受け取り、発売までこぎつけた開発責任者が、田中義和氏だ。プラグインハイブリッド車「プリウス」の責任者を経て「MIRAI」に抜擢された氏は、「短パンでいばら道を走れと言われたようなものだった」と笑いながら当時を思い返す。世界のトヨタのイノベーションは、どのようなものだったのか、その裏側を聞いた。
取材・文:HIP編集部 撮影:大畑陽子
もう普通の車では満足できなくなっていたんです
HIP編集部(以下、HIP):「MIRAI」の開発責任者としてお声がかかった時は、どんな心境でしたか?
田中義和(以下、田中):発売した今となっては、たくさん反響をいただいていますけど、もしもこの反響を最初から想像できていたら、正直、同じことができたかどうかはわからないですね。かえってプレッシャーになってしまって、やりきれたかどうかはわかりません。
HIP:それだけ困難な道のりだった、と。
田中:そうですね。でも、この話をもらったときは素直に嬉しかったです。プリウスプラグインハイブリッドを担当させてもらって、当時50歳前後だったので、2015年に出すとなると、年齢的に次やらせてもらう車が最後かな、っていうイメージもあって。おまけに今回は、1からすべて自分からスタートしていける。やりたいことがいっぱいでワクワクしました。
HIP:プリウスプラグインハイブリッドからMIRAIと、トヨタの最先端を任されていらっしゃるわけで、周囲からも羨望の眼で見られるんじゃないでしょうか?
田中:どうなんでしょう。自分では恵まれていると思いますし、こういう機会をいただいていることには本当に感謝しています。家族からも「あなただけずるいじゃない」って言われます(笑)。でも、「あんな大きすぎるプロジェクト、よくやるなぁ」という声をもらうことも多いです。言ってみれば、イバラの道を短パンで走れって言われたようなものですからね。でも、ぼくの場合はそういうのが好きなんだと思います(笑)。
HIP:ハードルは高い方がいいと。
田中:まぁ、やってくれと言われたときには、「えー!」って思いましたけどね(笑)。でも、プラグインハイブリッドをやったら、もう普通の車じゃ満足できなくなってしまったんですよ。また新しい車をつくれるぞ、って。でも、このプロジェクトの大変さは、まだまだその時はわかっていなくて……。
リスクをとらないことの方がリスクだと思った
HIP:開発はどんな道のりだったんですか?
田中:じゃあはじめるぞ、となって、簡単なプレ提案を経営陣に行なったんです。そうしたら「今どういう状況かわかっているのか。もっとやり方を考えろ」とお叱りを受けて。
HIP:「やり方を考えろ」というのは?
田中:2012年当時、トヨタはかなり厳しい状況だったんです。2009年のリーマンショックから、2011年の震災もあって、単独赤字でした。2012年は、どうやって黒字を出していくかっていうとても緊迫した状況だったわけです。そこへきて、まだ不確かだった水素自動車です。潤沢に予算をつぎこんで作り始められる状況ではなかったんですね。結局、開発にかけるお金を、提案の3分の1にしてほしいと言われました。
HIP:3分の1というのは相当厳しいですよね……。
田中:そうです。でも、トヨタとしてはもう20年近く水素で車をつくる研究はやってきていて。周囲からは「トヨタさんほんとに水素やるんですか、やれるんですか?」と言われたりするし、解決しないといけないことも山積みなわけです。さらに、経営状況も良いわけじゃない。でも、これまでやってきたことをぼくがふいにするわけにはいかないじゃないですか。リスクをとらないことのリスクというか、ここで変わらないことのリスクはすごく大きいと思ったんです。
HIP:もうやるしかない、と。
田中:とは言え、これはもうぼく一人の力じゃどうにもできないわけです。関係部署に働きかけて、なんとかうまくやる方法がないかをひたすら掛け合いました。たとえば、生技はいつも四型でやるのを一型にすることで固定費を下げる試みを考えてくれたし、調達は調達で新しい連携先を探して彼らとよりスマートなものづくりをやるように進めてくれた。開発部隊は今まで試作をたくさんつくってテストしていたのを、一発で評価できるようにしてくれて、結果的に台数をかなり減らすことができた。試作部は、試作品をつくるにしても部品は高いので、部品をうまく使い回せるように工夫してくれました。そんな具合でみんなが知恵を集めてがんばってくれたんです。
HIP:それだけ多くの人たちを動かすのは、聞いているだけでも大変そうですね。
田中:もう誠意と熱意しかないですよ。最終的には社長や副社長に、「こういう形で進めます」と再度提案しました。3分の1にはできなかったんですけどね。それでも、最終的には厳しいことを言う方々も応援してくれました。「これだけ田中ががんばってやっているんだから、トヨタとしてやれることをやっていこう。難しい状況だけれど、これでいこう」と応援してくれました。
責任者があらゆる面で一番勉強していないといけない
HIP:大企業だからこそのイノベーションのやりやすさとやりにくさがあると思うのですが、トヨタの場合はどうでしょうか?
田中:大きな会社ですからね。大企業で新たなことを起こすのは、はじめにとてもパワーが必要です。まず、経験がない新しいことをやるのは苦手です。それから、組織が大きいからこそシステマチックに動いているので、その流れを変えることは簡単じゃありません。ただ、一旦その流れを変えられると、ものすごい力でガーっと動いていくわけです。動かすまでは大変なんですが、動かしかければ、必ず応えてくれる会社だと思います。
HIP:動かすためには、やはり根回しのようなものも必要なんでしょうか?
田中:根回しって暗いところで口裏を合わせて、みたいなイメージかもしれませんが、そういう意味の根回しではなく、キーマンに一人ずつに話しをしていくことはとても大切です。大きな組織と言っても、中にいるのは一人一人の人間ですからね。そういう人たちにきちんと一人ずつ話していく。そうやってはじめて自分の想いが伝わることもありますから。
HIP:誠意と熱意を持って伝えていく。
田中:そうですね。一番最初の厳しいときには、「このプロジェクトはこれだけ楽しくて、これだけの意義や魅力があって」っていうことは、ぼくが言い出すしかないんです。不安があったとしても、信じないといけない。それで周囲に、「あいつが言っていることなら信じてやるか」って思ってもらえると、動き始めていくわけです。
HIP:それだけの信頼を得るには、裏付けも必要ですよね。
田中:自分自身が全員と互角に議論ができるだけの能力や知識を身につけないと、当然信用してもらえません。そこはもうひたすらに勉強します。先人の開発責任者が言っているように、「責任者があらゆる面で一番勉強していないといけない。車は責任者の知識以上のものにはならない」というのは、本当にその通りだと思うんです。
HIP:実際に動き出してからは、うまくいったのでしょうか?
田中:もちろん衝突もたくさんありました。たとえ衝突しても、抑えずに、本音で言い合うのが一番です。向こうだって水素を20年近くやってきた蓄積があるし、ぼくにもプラグインハイブリッドの経験がある。そういうものをぶつけ合っていくと、途中からお互いを認め合ってコミュニケーションがすごく良い形になっていくんです。たとえば、2015年にMIRAIを発売しないといけないという大前提はあるけれども、品質面は一番大事で、そこを間違ってしまったらぼくはいない方がましなんです。ですからプロジェクトを進める中で、ここは日程のことはぼくが責任をとりますから、一旦止めてきちんと確認しましょうとか、お互いの経験や知識をぶつけ合いながら決めていくわけです。
ハッピーストーリーを持ち続ける大切さ
HIP:その田中さんの熱意は、どうやって生まれるんでしょうか?
田中:うーん、一生懸命しゃべっているだけなんですけどね(笑)。まぁでも、ハッピーストーリーを自分の中に持てているかというのは大事だと思っています。
HIP:ハッピーストーリー、ですか?
田中:ぼく自身も所詮いい格好をしていたいんですよ。人間、間違っていること、世の中に害を与えるようなことはしたくないじゃないですか。あとで「あいつがやった車って、全然クリーンじゃなくて害そのものじゃないか」って言われたくないわけです。逆に、自分が儲かるためとか、名声を得るために何をやってもいいと思ったら、それって自信を持って人に言えないと思うんですよね。だから、ちょっとでも疑問を持ったときには考えたりみんなと議論したりして、自分たちがやろうとしていることは間違っていないんだと確認して、信念を持ち続けることが大事だと思うんです。自己暗示みたいなところもあるかもしれないけど、そういうハッピーストーリーを持ち続けないと、たとえ大きな声でしゃべっても、人に伝わる熱意にはならないと思います。
HIP:人や社会のためになるストーリーを持ち続けることが大事なんですね。
田中:実際にMIRAIを発売した後、トヨタ九州に講演に行ったんです。そこで教えてもらったのが、下水汚染から水素をつくる世界初のプロジェクトでした。福岡の下水処理場で発生するメタンガスから水素を製造してMIRAIを走らせるというものです。ある意味で地産地消のエネルギーのエコシステムです。「MIRAIができたからこのプロジェクトは生まれたんですよ」って言われると、やっぱり嬉しいですよ。
HIP:ハッピーストーリーが現実のものになったわけですね。
田中:プラグインハイブリッドが終わったときもそうだったんですけど、途中厳しくやり合った人たちと最後に肩を抱いて泣けたりとか、こういう風に社会の動きのきっかけになることができたりとか、こういうことを何度か経験すると、もうやめられないですよね。多少大変でも、命と引き替えになるわけじゃないですし。時間を顧みないから、家族をどこか旅行に連れて行ったりしてあげられなかったりするんですけど、別に仲は悪くないと勝手に思ってますしね(笑)。そういう意味では、きっと幸せな人生なんです。
次の成長のために落ちるときも必ずある
HIP:プロジェクトのお話しから離れるのですが、トヨタという世界的な大企業の中でイノベーションを起こしてきた田中さんは、未来の東京、未来の日本をどのように見ていらっしゃいますか?
田中:日本も世界も、適切な形でいいバランスが保たれているし、これからもそうなんじゃないかなと思っています。トヨタで言うと、一時期、社内を欧米化していく流れもあったんですけど、最近はむしろ原点回帰的な動きが多かったりします。そういう揺り返しみたいなものは常にいろんなところであって、適切にみんなのインテリジェンスが働いている証拠なんじゃないかと思うんです。
HIP:常に揺れ動いていくバランスが大事だと。
田中:企業でも、ずっといい時ってないと思うんですよ。ずっと右肩上がりなんじゃなくて、3歩下がって4歩進んだり、7歩下がって8歩進んだりする。次の成長のために落ちるときっていうのが必ずあって、そういうのを繰り返しながら、結果的に冷静に見てみたら、みんなの暮らしはどんどん良くなっていく方向に向かっているんじゃないかと思います。後退することがあっても、いずれは上向いていく。それは自信を持っていいのではないかと思いますね。
次回のHIP talkは……?
HIP:このHIP talkはリレー形式で、その人が気になるプロジェクトを次々に紹介していきます。最後に、田中さんが今気になっているイノベーティブなプロジェクトを教えてください。
田中:イノベーションというと、ITやロボットや宇宙などの新たな分野にいきがちですが、どちらかというと生活に身近な領域を変えていくことに注目していますね。日本酒の「獺祭」はすごくいい事例だと思います。日本酒屋の後を継ぐなんて、若い人からするとマイナスのイメージになりそうじゃないですか。だけど、他の人が挑戦していないことに取り組んで、新たな日本酒ブームを作り、日本酒の良さが見直されるきっかけを生み出した。
それからセブンイレブン。便利さを追求しつつも味を大切にしていて、真の意味でコンビニエンスストアを作ったと思います。こうした成熟した産業や習慣を大きく変えていくことのすごさはありますよね。新しいものを生み出すことももちろん大変ではあるのですが、これまでにないものを生み出すことって意外と上手くいきやすかったりもするので。成熟しているものを変えて、もう一度花を咲かせるというのは、大変だし、すごいことだと思います。