会話の途中、相手の口臭が気になったことはないだろうか。他人の口臭に気がついても指摘しづらく、「もしかしたら自分も……」と不安を感じる人も多いだろう。
オーラルケア研究のリーディングカンパニーであるライオンは、そんな口臭ケア事情に新たなアプローチを打ち出した。開発したのは『RePERO(リペロ)』。舌の画像を撮影すると、AIが解析し口臭リスクレベルを判定してくれるスマートフォンアプリだ。現在はBtoBでの実用化に向け、小売業の接客スタッフを対象とした実証実験が行われている。
『リペロ』を手がけたのは、ライオンのイノベーションを推進する部署「イノベーションラボ」。当然アプリ開発経験のない彼らは、いかにして『リペロ』をかたちにしていったのか。『リペロ』プロジェクトリーダーの石田和裕氏と「イノベーションラボ」所長の宇野大介氏を訪ね、組織の成り立ちや方法論をうかがった。
128年の歴史を誇る大企業が起こしたイノベーション。その裏側には、消費者を起点とするデザイン思考があった。
取材・文:笹林司 写真:丹野雄二
誰もが気になる口臭。ケア製品が優れていても「不安」は消えない
HIP編集部(以下、HIP):トイレタリー用品や医薬品を手がけるライオンが、なぜスマートフォンアプリを開発することになったのでしょうか?
石田和裕氏(以下、石田):お客さまの本音や、本当の困りごとを解決するためです。世の中にはオーラルケア製品がたくさんあり、ライオンも複数のブランドを持っている。ですが、お客さまの本音を調査した結果、見えてきたのは「不安」でした。
どんなに優れたケア製品を使っても、「口臭が改善されていないかも」という不安が残る。これによって、積極的なコミュニケーションが取れないという声もありました。そこで口臭リスクを「見える化」することが、新しい価値になると判断したのです。
石田:開発に向けて生活者の求める機能や要件を議論した結果、専用デバイスをわざわざ購入して持ち歩く必要がなく、オーラルケアの情報も手に入るものが好ましいと考えました。そこで、多くの方がすでにデバイスを持っており、こちらからの情報提供もしやすいスマートフォンアプリに着目したのです。
HIP:アプリを開発するのは、もちろん初めてですよね。
石田:そうですね。既存事業領域の製品については、120年以上続く歴史のなかで培った技術や方法論が社内にあります。ですが、今回はまったく新しい挑戦ですので、とにかく外に出て情報収集を行いました。
もちろん、自分たちでできる努力もしました。まずは『リペロ』のために舌の写真を何千枚と撮影し、舌苔の状態と口臭レベルを相関づけたのです。撮影から分析まで自分で行い、次第に法則性も見えてきました。ただ、それをシステムに落とし込むのは難しい。そこで「もしかしてAIと相性がいいのでは」と思い、アプローチを始めました。
承認する側は「わからない」だけ。だから、毎日足を運んで丁寧に説明した
HIP:AI開発支援のパートナーは、どのように見つけたのですか?
石田:AIの勉強会に参加した際、その勉強会を主催していた富士通クラウドテクノロジーズさんに大きな可能性を感じ、こちらから共創を申し出ました。集めたデータを提供し、アルゴリズムの作成をお願いしたところ、ほんの数日で基礎が完成して驚きましたね。クラウドやサーバー環境の整備の知見を多くお持ちだったことも、パートナーに選んだ理由のひとつです。
アプリ開発では、エムティーアイさんにご協力いただきました。同社は自社開発のアプリをBtoB向けにも販売しているため、『リペロ』を企業に導入していただくうえでのノウハウをお持ちだった点が魅力的でした。
また、私たちにはアプリのユーザビリティーについて知見がなかったので、デザイン思考を基本にしたワークショップも開催しました。ペルソナを立てて、カスタマージャーニー(行動に至るプロセス)を検証しながら、必要な要件をいっしょに決めていったのです。
HIP:領域の異なる他社とプロジェクトを進めるうえで、苦労したことはありますか?
石田:いちばん大変だったのは、コミュニケーションを円滑に回していくことです。当初は、私が間に入ってそれぞれの担当者とやり取りしていました。しかし、お互いに顔をつき合わせないと、うまく意思疎通が図れないことが多かった。そこで、「ライオンが発注する」というかたちではなく、全員がひとつのチームとして進める座組みに変更しました。
HIP:社内でも苦労はあったのでしょうか?
石田:こちらも大変でした。一般的に、アプリはリリースしたあと、カスタマーのフィードバックを受けながらバージョンアップしていくもの。しかし、トイレタリー用品や医薬品を製造しているライオンには、「完成したもの」を出す文化が根強くあり、アジャイル開発の思想はなかなか浸透しませんでした。これまで既存事業で最適化してきた品質チェック項目も、アプリには適用できません。
石田:ただ、決してプロジェクト自体を反対されていたわけではありません。承認する側も、「わからないから判断ができない」だけ。ですので、丁寧に何度も説明することが重要でした。当時はほとんど毎日、関連部署に足を運んでいましたね(笑)。
あとは、プロジェクトに巻き込んで、それぞれが当事者になるような座組みをつくっていきました。そうすると、相手も私たちのやりたいことを理解してくれる。いまでは心強いサポーターです。
始まりはデザイン思考。最終目標は「ライオン全体がイノベーティブな会社になること」
HIP:『リペロ』は、「イノベーションラボ」から生まれた第1弾プロジェクトです。そもそも「イノベーションラボ」は、どのような経緯で立ち上がったのですか?
宇野大介氏(以下、宇野):「イノベーションラボ」は、2016年のなかばにライオン社内で生まれた「モノ・コトづくり革新プロジェクト」を前身とした組織です。
宇野:ライオンは、経営理念としても掲げる「挑戦と創造の心」を大切にしています。そもそも研究者は「新しいことをやりたい」という意識が人一倍強いですから、イノベーションにチャレンジするDNAはありました。ただ、128年の歴史のなかで、製品をつくり、世に出すプロセスは高度に効率化されていた。研究者も「挑戦と創造の心」を既存事業に向けがちで、新規事業へのチャレンジがおろそかになっていた部分は否めません。
そんななか、プロダクトイン発想で製品を生み出すプロセスを見直して、お客さまを出発点にものづくりしようという機運が高まっていきました。こうして始動したのが「モノ・コトづくり革新プロジェクト」です。
HIP:「モノ・コトづくり革新プロジェクト」が「イノベーションラボ」として独立した経緯というのは?
宇野:『リペロ』などの成果が見えてきたので、きちんと部署をつくったほうがいいだろうという話になったのです。1年半の活動を経て、2018年1月に「イノベーションラボ」として部署化されました。
宇野:経営判断もあったと思います。同時期に新たな中期経営計画が発表されたのですが、そこで経営ビジョン「次世代ヘルスケアのリーディングカンパニーへ」が制定されました。「モノ・コトづくり革新プロジェクト」が挑戦していた領域はまさに「次世代ヘルスケア」ですから、新たな経営ビジョンを象徴する部署という意味もあったのではないでしょうか。
HIP:「イノベーションラボ」には、どのようなミッションが課せられているのですか?
宇野:ひとつは、ラボを全社のイノベーションのハブにすることです。「イノベーション=研究開発の専売特許」ではなく、あらゆる部署でイノベーションを促進し、スピードを高めるために、ここをハブとして機能させていきたい。
もうひとつが、新規事業を立ち上げることです。いわば社内ベンチャーですね。ぼくが所長に就任した際、メンバーには「全員、起業家を目指せ」「既存事業はやらない」と宣言しました。
宇野:メンバーも、当初は研究開発本部の研究員が中心でしたが、いまは営業やマーケティングなど、さまざまな部署から集まっている。製品やサービスを開発するだけでは「事業」になりません。そのためには、研究者以外の多種多様な人材が必要です。
HIP:大企業でイノベーションを起こす場合、部署を本社から切り離し、出島として活動させる方法もあります。ライオンは、ほかの研究部門と同じ敷地内にラボを構えていますね。
宇野:全社のハブになるためにも、あえて出島にしないほうがよかったのです。最初から出島にしてしまうと、ほかの部署の社員には「自分たちとは関係ない」と映るでしょう。それでは意味がない。もちろん、石田がお話ししたように苦労はあります。ですが、それは外に出ても同じではないでしょうか。