自前主義から脱却し、社外から新たな技術やアイデアを取り入れることで、革新的な新製品やサービスを生み出す「オープンイノベーション理論」が提唱されたのは、2003年。世界的な経営学者であるヘンリー・チェスブロウ氏によるものだ。そこから約20年、日本国内でもその理論を用いてさまざまな事業が生まれる一方、社会実装することなく消えていった事業も多い。この課題を解決するためにインキュベーションセンターでは、どのような環境づくりが必要となるのか?
日本のオープンイノベーションの変遷を振り返りながら、インキュベーションセンターの現在とあり方について、横浜市立大学国際商学部の芦澤美智子 准教授と東京理科大学経営学部の渡邉万里子 講師が語る。
文:サナダユキタカ 写真:坂口愛弥
研究者から見た、日本におけるオープンイノベーションの課題点
HIP編集部(以下、HIP)HIP編集部(以下、HIP):日本企業でも自前主義から脱却し、さまざまなプレーヤーと組んでイノベーションを起こす試みが行われてきました。まずは、なぜオープンイノベーションという考え方が生まれたのか、その背景についてお考えをお聞かせください。
芦澤美智子氏(以下、芦澤):オープンイノベーションは2003年に経済学者ヘンリー・チェスブロウ氏が提唱し、デジタル技術の進歩を背景に世界的に広がった理論です。
デジタル技術が社会に実装されていくなかで、デジタル化はすべての産業に食い込んでいきました。しかし、新しい技術なので使い方がわかりません。そうしたなかで、デジタル技術の理解が深い人と組むことが重要となり、その解決策として、オープンイノベーションという理論が生まれました。
ちなみに、当時の日本は、バブル崩壊から10年余りがたったのにもかかわらず、その後遺症から抜け出せず、まさに多くの企業がどうすれば成長できるのか困っていた時代です。
HIP:そうした背景のなかで、日本におけるオープンイノベーションはどのように実践されてきたのでしょうか?
芦澤:国内のオープンイノベーションが活発になってきたのは、ここ10年ほど。米国・シリコンバレーと日本の両方に拠点を置いているベンチャーキャピタル(以下VC)がいくつかできたことが、大きな影響を与えています。彼らはシリコンバレーを起点に、世界のスタートアップの状況を見ています。そして、日本の大企業からLP出資を募り(※ファンドがスタートアップに投資するための資金を企業などから集めること)、世界のスタートアップに投資してきました。
さらに、VCは新たな情報を得たい日本企業に、最先端の技術や手法が特徴的なシリコンバレーのスタートアップなどをつなげていきました。そうしたVCの取り組みによって、シリコンバレーにあるさまざまな情報が日本企業に入るようになったのです。
HIP:具体的には、どのようなVCが挙げられますか?
芦澤:一例としてWiLが挙げられます。WiLはWiLの組成するファンドに投資を行った大企業の社員を定期的にシリコンバレーに招き、現地のスタートアップとの交流を図っています。出張や駐在した社員がシリコンバレーの手法や現地の投資家の考えなどの知識を持ち帰ることが、日本のオープンイノベーションを加速させるきっかけになりました。以降さまざまなVCが、日本の大企業に刺激を与えています。
3年以内に黒字化を目指すプレッシャー。大企業が抱える問題点
HIP:日本のオープンイノベーションの現在地は、どのあたりにあるとお考えですか?
芦澤:新規事業創出やアクセラレータープログラムなど、オープンイノベーションに関しては、多くの大企業が挑戦しており、まずは一巡したというところでしょうか。そうしたなかでも、オープンイノベーションの実現には、いくつかポイントがあることを学びました。
まずひとつが、新たな知見を得てそれを広げていく「知の探索」と既存の知を深めていく「知の深化」の双方を持つ「両利きの経営」の重要性です。この認識が深まったことで、日本企業はインキュベーションセンターや海外につくった拠点などの「飛び地」の環境で新規事業をやるべきだと理解しました。飛び地でやることで、本社では得られない知見に触れたり、会社の上層部からの過度の介入がなかったりするからです。
もうひとつが、「大企業とスタートアップという異なる血を混ぜれば何か生まれるという期待」が、そううまくはいかないとわかったことです。そもそも大企業とスタートアップでは成り立ちからして異なるので、双方のアイデアを一緒にしたところでイノベーションは起こしづらいんです。そうした現状のなかで、大企業が次のステップを模索し始める段階にきています。
渡邉万里子氏(以下、渡邉):オープンイノベーションを起こすために、日本企業がシリコンバレーなどの外の世界へ本格的に進出し始めたのが2016年頃。海外に拠点をつくった事例もありましたし、実際に現地の研究所やメインプレーヤーと組むことで成功事例も出てきていました。
しかし、同時に問題点も浮き彫りになりました。それは、オープンイノベーションを外の世界から国内の本社に持ち帰ったとしても、受けとめる側との間に温度差があるということ。経営層がオープンイノベーションを必要としていても、危機感が隅々まで伝わらない状況が続いているのです。日本企業は2000年代からR&D(研究開発)の国際化に悩んできましたが、いまだに同じ問題を抱えており、これは非常に根が深いなと感じています。
芦澤:飛び地だと活動するには便利なのですが、いざ本社の中に取り込むとなるとうまくいかない。これこそ、現在も多くの日本企業が直面している課題です。
渡邉:社員への評価システムやインセンティブといった、企業の根本的な部分から改善していく必要があるかもしれませんね。
芦澤:典型的なのが、1兆円規模の大企業の新規事業部門においては、経営層から「100億円規模の売り上げをつくれ」と言われるケース。言い換えれば、「100億円の売上が立たないなら新規事業はやるな」ということで、「評価軸は売上にあるぞ」というメッセージだということです。
さらに上場企業であれば、3年以内に黒字化しなければならないというプレッシャーがあります。しかし、短時間で達成できる100億円ビジネスが、一体どこにあるのでしょうか。こうした事例も、大企業が抱える問題点のひとつなのです。
現在、政府もオープンイノベーションの推進を発信していますが、なかなか前進していません。実現のためには、企業の組織構造をフラット化し担当に権限移譲をする、新規事業部門を社長直下にするといった組織改編が必要になってくるでしょう。
オープンイノベーションを加速させるのは、ネットワーク構造の縁にいる人々
HIP:お二人は虎ノ門ヒルズのインキュベーションセンター「ARCH」を研究対象としてご覧になられています。こうした場所は、日本のオープンイノベーションが抱える課題を解決する一助になり得ますでしょうか。
芦澤:新規事業は大企業の中で、理解されにくい側面があります。そういった状況だからこそ、同じ目的を持った人が集まり、新規事業のワクワク感や困難さを共有できる場は必要です。
会社という枠を飛び越えて、クラスメイトのように志の同じ人が集まり、そこにメンターやコミュニケーターといった先生の役割を果たす人が常駐する。そんなARCHのことを「大学のようだね」と、先日も渡邉さんと話していました。人を集めるだけのインキュベーションセンターでは解決できなかった課題も、ARCHなら解決できると感じています。
ですから、大手デベロッパーを始め様々な企業が、大企業の新規事業やスタートアップの立ち上げを加速させる拠点づくりに注力しているのは、日本経済にとってプラスになると考えています。
HIP:ARCHの特徴や注目しているプロジェクトなど教えてください。
芦澤:ARCHの最大の特徴は、あえてスタートアップを入れず、大企業の新規事業・経営企画部門のみが入居している点でしょう。しかも、大企業のなかでも決裁権のある社員が入居しているので、各企業が本気で新規事業に取り組めるような文化が醸成されています。
渡邉:大企業の新規事業・経営企画部門の社員がARCHに入居する目的として、「ネットワークを広げ、社内では出会えない人とつながる」「他社との協業によって、事業化を加速させる」という2点が挙げられます。それらを踏まえて、ARCHに入居した大企業のネットワークの広がりと事業スピードについてリサーチしたところ、実際にネットワークを活用し、協業によって早いうちに成果を上げている企業が存在しました。
リサーチした大企業10社のうち、ある大手通信企業はアイデア構想から事業化へのステップが非常に早いことがわかりました。内容としては、ヘルスケア事業をスタートアップと立ち上げ、保険会社などと協業。睡眠を軸にした新規サービスの展開を視野に入れながら、事業化を進めています。
また、大手金融系企業でも、事業化に向けてスピード感を持って進めているプロジェクトがありました。こちらでは、建物の壁などを使った発電を軸にした電力事業を検討しています。大手金融系企業の担当者が、スタートアップと組んで発電事業を進める構想を持ってARCHに入居したという前提はありますが、事業化に向けたステップを着実に踏んでいます。