トランスミッションなど、自動車専用の精密部品を開発・販売し、約4兆円もの売上規模を誇るグローバル企業・株式会社アイシン。前身のアイシン精機から数え半世紀以上の歴史を誇る老舗メーカーが今年、未知の領域となる「美容」事業に乗り出した。
微細な水粒子「AIR(アイル)」を肌や髪の奥にまで浸透させることで、スキンケアや髪質改善につながる。また、ゆくゆくは美容だけでなく医療、衛生、農業、食品など、生活のさまざまな場面での活用を視野に入れているという。
自動車部品の製造が事業の95%を占めるという同社において、このまったく新しい事業はいかにして立ち上がったのか? また、事業化に至るまでにはどんな困難があり、それをいかにして乗り越えたのか?
AIRという新技術の研究、開発、そして事業化までを担ったアイシンの井上慎介氏(イノベーションセンター AIRビジネス推進室室長)と、社外パートナーとして伴走した株式会社マクアケの北原成憲氏(R&Dプロデューサー)に話をうかがった。
文:榎並紀行(やじろべえ) 写真:玉村敬太
偶然の発見から生まれた「あり得ない技術」
HIP編集部(以下、HIP):まず「AIR(アイル)」とは、どういった技術なのでしょうか?
井上慎介氏(以下、井上):目に見えないほど微細な、世界最小の水粒子です。大きさは約1.4〜1.5ナノメートルで、ケトルでお湯を沸かしたときに出るスチーム粒子が体長25mのクジラだとすると、AIRは体長約4センチメートルの金魚ほどのサイズになります。この大きさで水粒子をつくり出す技術は、現時点で弊社だけのものと認識しています。
すでに活用されている事例としては、美容分野です。水粒子が肌の奥の層まで浸透し、潤いが長時間にわたって持続する特性を活かして、肌の保湿を助けたり、バリヤー機能を改善したりする商品やサービスの開発を進めています。
また、髪の毛のダメージを減らしたり、カラーリング、トリートメントの効果を高めたりする特性も認められていて、こちらはすでにプロダクトとして実装され、いくつかの美容室で導入していただいています。
HIP:それにしても、自動車部品を製造するアイシンが美容というのは意外です。開発の経緯を教えていただけますか?
井上:おっしゃる通り、アイシンは自動車部品の製造がメイン事業で、全体の95%を占めます。
私は入社以来ずっと残りの5%のほうに携わっていて、主にBtoC事業におけるベッドの開発を担当していました。ベッドそのものをつくるだけでなく、快適な睡眠効果を得るために、寝室内の温度・湿度を調整するシステムを開発していたときの研究がAIRの大元になっています。
HIP:それはどのような研究だったのでしょうか?
井上:空気中の水分子を「水の粒子」に変換する研究です。この技術を使えば、従来の加湿器のように給水をしなくても、寝ている間に勝手に寝室の湿度を保ってくれる。エアコンをつけっぱなしでも乾燥しない、調湿のための技術として2012年頃から研究をスタートしました。
HIP:そこからAIRの新規事業につながったきっかけは何だったのでしょうか?
井上:大きな転機は2015年頃だったと思います。大学の医学部などと共同研究がスタートし、そのなかで「水の粒子」に人の肌への保湿効果があることがわかってきました。
それまでは正直、モノになるかどうか微妙だと思っていたのですが、本気で突き詰める価値と可能性のある技術なのではないかと。やり方次第で、すごく面白くなるんじゃないかという認識にあらたまりましたね。
HIP:具体的には、どこが「面白い」ポイントだったのでしょうか?
井上:まず、人の肌に水が長時間にわたり留まるという点です。これは、通常はあり得ないことだと考えました。入浴後の肌が過乾燥状態になるように、外から肌に水分を与えてもすぐに体外へと放出されてしまいます。しかし、われわれの「水の粒子」ではそれが起こらない。本当に不思議な現象で、発見したときは驚きとともに大きな喜びがありました。
そして、「このメカニズムを突き止めたい」という思いで研究を続けた結果、この水の粒子が「微細水」、つまり世界最小の水粒子であることがわかったんです。
北原成憲氏(以下、北原):マクアケは2017年の1月からプロジェクトに参加しているのですが、すぐにこの技術の凄さを実感する出来事がありました。
6月にDrug Delivery System(体内での薬物分布を制御することで、効果を最大限にし副反応を最小限にする技術)の分野で実績を挙げられている著名な研究者に、技術を紹介しに行ったときのことです。
先方は当初、「そんなサイズの水が空気中に存在するわけがない」とまったく信じてくれませんでしたが、井上さんが本当に真剣にプレゼンされる様子を見て、その場で実験をさせてもらえることになったんです。
目の検査にも使われている蛍光色素を塗った肌にAIRを当て、肌の奥へ成分が浸透するかどうかを検証する実験で、蛍光色素が暗闇で光らなければAIRの効果が実証できるというものでした。
HIP:結果はどうでしたか?
北原:ブラックライトに反応するはずの蛍光色素が光らず、その研究者の方も「ええ〜!」と絶叫されていました。これは認めざるを得ないですね、と。
あのときはすごい光景を目の当たりにしたと感じましたし、チームとしても「これはいける!」という手応えを持つことができたと思います。あれから、さらに一枚岩になれた気がしますね。