アメリカでは、田舎の独立リーグの試合にも大勢のお客さんが集まって楽しんでいる。
HIP:天野さんはアメリカ留学中に、現地で非常に人気があるカレッジスポーツを体感してきたそうですね。川崎フロンターレでのチームづくりは、アメリカで受けた影響も大きいのでしょうか。
天野:そうですね。アメリカでは、スポーツが街のコミュニティーづくりにおいて重要な役割を果たしていて、試合会場の様子も違うんですよね。もちろんプレーに集中しているファンもいますが、多くの人々はスポーツを理由に集まって、楽しく過ごしているんです。
以前、野球の独立リーグで、グランドキャニオンのふもとにあるボールパークに試合を観に行ったことがあるんですが、競技のレベルに比べて、異様なほどたくさんのお客さんが入っていました。田舎と呼ばれるような場所でしたが、地域の人が集まってボールパークがパンパンになっている。
それでいて、試合を集中して観ているかというと、フィールド横のスペースでバーベキューをやっているわけです(笑)。肉を焼きながら、ヒットが出たら盛り上がって、またワイワイ食事に戻って、という。観客の人たちにすごく「余裕」を感じるんですよね。
HIP:そうした日本とアメリカのスポーツをめぐる価値観の違いは、どこから生まれるのでしょう?
天野:日本のスポーツは「勝ち負け」が重視されすぎることが要因の1つだと思います。学校教育の体育や部活動の影響が強いと思うんですが、勝利がすべてという価値観だと、負けが続いた地元のクラブは応援されなくなってしまいます。するとチーム経営がうまく成り立たなくなっていく。でも、アメリカのファンの間には負けても楽しめるような空気が流れていて、運営側もそれをわかっている。
HIP:チームが強くなくても、ファンが離れないような基盤をつくることが重要なんですね。
天野:日本のスポーツ界には、アメリカの大らかな放牧型のようなスタイルでビジネスを設計していくのが合っていると確信しています。ただ難しいのは、サッカーはヨーロッパ発祥なので、現在も日本のサッカーをめぐる価値基準がヨーロッパをモデルにしがちな点です。
ヨーロッパのサッカーには、国や地域、宗教といったものを礎にした代理戦争という歴史的な背景がどうしてもあるんですが、日本にはなじまないと思うんですよ。川崎フロンターレと横浜F・マリノスさんで「神奈川ダービー」だといっても、フロンターレファンだって、横浜やみなとみらい21で買い物はしますから(笑)。
日本のスポーツとビジネスの関係性には、ポテンシャルが無尽蔵に眠っています。
HIP:先日、天野さんが川崎フロンターレを離れて、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会に出向されるとの発表がありました。いまの心境はいかがですか?
天野:クラブの風土づくりに関しては「悔いはない」というのがいまの気持ちですね。1997年に前身の富士通川崎フットボールクラブに入社したので、約20年間をフロンターレで過ごしてきた。その間、2002年FIFAワールドカップ日本組織委員会に出向して1年半離れたことはありますが、基本的にはずっとフロンターレにいました。
どうしたらサッカーを通じて人々を幸せにできるか? と考えながら突っ走ってきて、「やりきったなあ」というか。でも、チームを離れたにもかかわらず、自分がいたらコレやるのになあとか、そういったアイデアは続々生まれてきてしまうんですよね(笑)。
HIP:発想は止まらない、と(笑)。この20年間で日本のスポーツビジネス全体は大きく変わってきたと思われますか?
天野:正直に言えば、まだまだこれからです。日本のスポーツとビジネスの関係性は、良くなっていくポテンシャルを無尽蔵に持っていると感じています。
日本は1回の大きなイベントに注目を集めて、爆発的に成功させるような「短期のスポーツビジネス」は得意なんですよ。一方で、地域に根ざしたかたちでの長期的な発展の余地は、大いに残されているのではないでしょうか。サッカーをビジネスとして考えるうえでは、じつはまだマイナースポーツであるくらいの認識が必要かもしれません。
HIP:天野さんが、2020年の『東京オリンピック』に向けて取り組みたいと思っていることを伺えますか。
天野:3つあるのですが、まず1つは観光ビジネス、観光産業を発展させることです。日本国内の観光地以外にも、海外からの観光客の人に足を運んでもらえるようにしたい。じつは、川崎市も海外にPRできる資源は多いんです。900年近い歴史を持つ川崎大師や藤子・F・不二雄ミュージアムがあり、そのすぐ近くの羽田空港は観光客の玄関口です。こういったところを『東京オリンピック』に絡めてアピールできれば、国内外から注目が集まると思っています。
これと連動した2つ目としては、見落とされがちだった日本の良さを発掘していくこと。そして3つ目は、オリンピック、パラリンピックを通じて健常者と障がい者の垣根のない世の中にしていくこと。こうしたことを、川崎フロンターレでの経験をもとに、組織委員会のなかでかたちにしていきたいですね。